| 第12回 |
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谷崎松子 |
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『倚松庵の夢』 (中央公論社 昭和42年7月) |
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本書は谷崎潤一郎の最後の妻・松子夫人が、夫潤一郎との出会いから結婚、創作活動、晩年の闘病生活、そして昭和40年の臨終の様子まで克明に記したものである。谷崎文学の源流を知る上で欠かせない資料と言える。
最初に「銀の盞」と題した章では、知り合いの宿の女将を介して芥川と同席していた谷崎と巡り合い、以後家族ぐるみの付き合いを続けるなか、二度目の離婚を経た谷崎と結婚した経緯を述べている。新生活がスタートした頃、谷崎は中央公論社社長の発案で源氏訳を決行し、山田孝雄博士の校閲を受け、三年の歳月を費やして完成させた。そのときの祝宴での谷崎と嶋中社長の喜びは格別であったという。
その後、『細雪』が軍部の圧力で掲載禁止となるが、疎開先である熱海や岡山で書き続けた。戦後は京都潺湲亭で二度目の源氏訳に取り掛かり、高血圧症に苦しみながら書き進めた。普段は作詩などしない谷崎であったが、源氏物語にちなんで「蓬生」と「花散る里」を作詩し、京舞の井上流に贈るなど、源氏への傾倒ぶりを顕わにしていたという。しだいに源氏ブームが高まり、劇化、映画化され、昭和30年には新訳谷崎源氏の豪華な愛蔵本も出版された。その後、終焉の地となる神奈川湯河原に新居を建て、三度目の源氏訳に取りかかった。
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ついで「湘碧山房夏あらし」では、谷崎は79歳の誕生日に心臓検査の結果が良かったことから、辻留の出張料理を堪能し、好物の牡丹鱧をたいらげた。しかし翌朝、体調が悪化。高名な医師らの尽力もむなしく、6日後に息を引き取った。この壮絶な死との闘いの中、創作を試み、予定どおり出掛けようとするなど、谷崎の創作熱の強さと生真面さが表れていたという。
そして「倚松庵の夢」の章では、谷崎が人妻であった著者に求愛する様子が描かれている。神戸の魚崎で新婚の谷崎家と隣居していた昭和7年頃、著者は谷崎と雑談中、卒然「お慕い申しております」と告白された。掲載されている谷崎からの恋文には、著者が創作の源となっていることや、崇める言葉が尽くされている。また、『春琴抄』執筆の際は、谷崎が著者に対し佐助同様に使用人の姿勢を貫いたことから、嫉視と好奇の眼差しで見られ、著者は病気がちになったという。全ての障碍を乗り越えて夫婦となったが、最後まで隔てを置かれていた寂しさを吐露している。
「細雪余談」の項では、『細雪』に描かれた平安神宮や錦帯橋の花見、岐阜の旧家に招かれての蛍狩の場面は事実そのまま詳細に記されていると述べる。中巻で描かれた大水害で、娘の悦子は学校に行き被災したとなっているが、実際は谷崎の直感で行かせなかったという。また、『細雪』執筆中は戦時下で警報がなっても机から離れず、原稿を抱いて防空壕へ這入った逸話が紹介されている。
「源氏余香」の項では、生涯に3度源氏訳を行った谷崎が、複数の女性と関係する光源氏への嫌悪を晩年「にくまれ口」で述べたことを取り上げる。その潔癖さゆえか、著者との恋愛も曖昧にせず、前妻と離婚し著者と結婚した。著者が谷崎宅に出入りするようになった頃、谷崎一家と共に地唄や山村舞の稽古をしたという。その後、谷崎は多額の納税に苦しみ貧乏生活となるが、嫌悪していた半袖を着て過ごすなど清貧に甘んじる事も出来る人であったと述懐する。最晩年、生活に余裕があればこれほどの創作は出来なかったと著者に話したという。
他に、谷崎の病状や臨終の様子を記した項や、一周忌を記念した展覧会や歌碑の除幕式の様子を記した項、歌舞伎に登場する桜や、女性の声を気にする谷崎の性質を記した項などがある。
・谷崎関係のご論文、ご著書を出された方は、記念館に一部ご寄贈下さい。
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